秋独特の、スモークブルーの鈍い空。
彼が目を覚ましたのは、屋敷の敷地内にある木の上だった。ゆっくりと見渡せば、大層大きな本邸と、広すぎる庭が見える。
ふと黒塗りの門へと視線を向ければ、女が一人、立ち尽くしているのが見えた。
彼女は開かないとわかっている門を開けるように、随分力を入れて門押したが、実際は軽いそれに驚いて、転がるように敷地内へと足を踏み入れてしまった。
姿勢を正し、また止まる。
それはそう。
まるで不思議な空間に迷い込んでしまったかのような顔だった。
と、思う。
【 銀 糸 の 館 】
あとりはその古い邸の玄関先に立っていた。高い塀に囲まれたその屋敷は、一体どれほど昔からここに在るのだろう。いまや一斉にいろめきたった蔦に彩られ、荘厳なまでのその屋敷は静かに佇んでいた。あとりは握っていた紙切れに目をやる。几帳面に書かれた住所は、ここに間違いが無い。となると、伯父の家はここなのだ。
「母が風邪を引いたから、娘の私が本を返しに来ましたって、言えばいいのよ、うん」
抱えたバックの中身を確認し、メモも仕舞う。ごくりと一度息を呑み、埃の被ったチャイムを押した。
「……」
掠れた音が響いていった。返事は、無い。
「まさか、留守?」
曇り硝子の嵌め込まれた引き戸に手をかける。と、カラカラ音を立てて古い扉が開いた。
「ごめんください。あの、伯父様?」
薄暗い廊下が奥に伸びている。返事は、ない。
「留守、かぁ……。でも、鍵をかけてないなんて、無用心だなぁ」
一通り玄関内を見回すが、小奇麗にされた靴や傘がぽつねんとあるだけだ。勝手に上がりこむには流石に気が引けたため、一呼吸の後その場を後にした。
伯父にはまだ一度も会ったことがない。機会が無かった、と言えばそこまでだが、母が言うには「変わった人」、要するに変人らしい。そのせいか父があまりいい顔をしないというのが本当のところだ。会って見なければ、人のことなど分からないと言うのに。
「しょうがない。今日は本だけポストに入れて、また来よう」
布製の鞄ごと本をぐるぐるに包む。ポストを探して左右を見回すと、右手の奥に離れがあるのが見えた。白い花を咲かせる木も見える。
「もしかして、あそこに居るの?」
離れに居れば、チャイムは聞こえないはずだ。近づき、木を見上げた。
「……金木犀? でも色が……」
引き寄せられるように、他より背の低いそれに近づく。むっとするような甘い香りに包まれた。
「誰や?」
低く、少しどすの聞いた声にあとりはびくりと後ろを振り返った。
「っ痛っ!」
ピッと強く引っ張られ、あごが軽く上を向く。見れば髪がそのノコギリ葉に絡め取られていた。
「何してんねん、嬢ちゃん。人ん家の庭で」
どすの聞いた声は呆れるような声に変っていた。見れば、二十、三十ほどの男。くたびれた着物をはおり、袖は通さず懐から覗かせていた。狐のような目が、見下ろしてくる。
「……ここのお嬢、やないな。誰や? 名前は?」
「私はここの伯父様の姪で、高遠あとりと言います。それで、その、もしよろしければ助けてください」
先ほどから必死に解こうとしているのだが、あとりの柔らかい髪は絡みつくばかりだ。どうにも解けそうに無い。葉もしっかりと枝に張り付き、むしりとるのも難しい。
そんな彼女をただ見るだけであった男は、開いているのかどうかさえ怪しいその目を一層細めて笑った。
「あとり、ねぇ。どうやら銀木犀は、折角の客人を放したくなかったらしい」
男はおもむろに手を伸ばすと、あとりの髪を一本一本ほどきだした。そんなことをしていたら日が暮れてしまうだろう、と思うがされるままになる。文句を言って辞められてしまっては困る。
「あの、これ金木犀じゃないんですか? 花が白いですし……」
匂いは金木犀のそれだが、ならば黄色でなければおかしい。
「こいつは銀木犀ゆうてな、金木犀の母種になんねん。金木犀はこいつの突然変異や。ほれ、取れたで」
「あ……ありがとうございます」
思いのほか男は器用だったらしく、するりとあとりの髪は重力に従って落ちた。
「で、あとりは主人に用があってここに来たんやな?」
頷けば、「残念やなぁ」と返された。
「主人は今留守やで。もーちょい待っとったら帰ってくる思うさかい、待っとくか? なんなら茶でも淹れたるわ」
「いいんですか?」
「えぇよ。つってもわいの汚いアトリエでやけどな。あぁ、八雲いうんや。よろしゅう」
八雲と名乗った男の職業は画家だと言った。なんでも、伯父の家に居候させてもらい、離れをアトリエとして貸し与えられているとか。関西の言葉に着物と来れば日本画家か思ったが、爪にこびりついた色鮮やかなそれは油絵の具であろう。アトリエ内は、キャンバスらや何やらでごちゃごちゃしていた。中央に椅子が2つ、向かい合わせに置かれている。
「どっちか好きな方に座り」
八雲の言葉に返事をしつつ、あとりは一瞬躊躇した。お世辞にも綺麗だとは言えない椅子だったからだ。それを察したのか、その辺にあった布を投げて渡され、敷く様に促された。真っ白なその布は、やけに此処では目立つ
。
「かんにんなー。自分の使いやすいようにしとるさかいに、掃除なんてもんはせぇへんのや。嬢ちゃんにはすまんけど、我慢したってや」
「あ、いえ……お気遣い無く」
「そないゆうたかて、嬢ちゃんは大事な主人の姪御さんやねんやろ? 粗末にしたらわいがしかられてまうわ。……此処じゃ変わらんやろけどな」
細い目をさらに細めて笑う彼につられてあとりが笑えば、彼は茶を入れると言って奥の方へと消えていった。
一人になったあとりは、アトリエの中を見回す。
先ほど言っていたように、掃除などと言う言葉すらないのだろう。窓の桟には埃がうずたかく積もっているし、飛び散った、あるいは用紙からはみ出したであろう絵の具がそのままにしてある。元々は木の色一色でであっただろうに、今ではそこかしこに虹が描かれている。
そして壁には絵が立て掛けられていた。
「これ、八雲さんが描いたのかな……」
山や川、そして空。風景ばかりのそれは、無造作に重ねられ、半ば放置されていた。
「綺麗。」
一枚ずつ、そっとキャンバスを移動させる。大きさもそれぞればらばらで、書き殴ったものや、黒で塗りつぶされた物も混じっていた。けれどあとりが見ればどれもとても綺麗な物ばかりで、自然の瑞々しさが其処に或る気がすると触れてみたくもなる。触れてみれば触れてみたで、油絵の具独特の艶やかな手触りが心地よかった。
「その辺はボツやから、あんまり見んといて欲しいなぁ」
はっと振り向けば、両手に湯飲みを持った八雲が、困った顔をして立っていた。慌ててキャンバスを元に戻す。
「ご、ごめんなさいっ」
「あー別に謝ってもらわんでもええねんけど、触ったら臭い付くからやめとき」
無愛想な湯飲みで悪いなぁ、と手渡されたそれを受け取りながら、あとりは八雲に続いて椅子に座った。
くたびれた着物から伸びる腕は、男にしては細くともやはり雄雄しい。指先も無骨で、湯飲みの凹凸に引けを取ってはいない。
だと言うのに、あんなにも繊細な絵が描けるんだな、とあとりは思う。
そもそも、どうして彼は着物なのだろうか。似合っているとはいえ、やはり裾が邪魔になるだろうし、どう考えても絵描きには不向きである。それとも何か理由でもあるのだろうか。
「嬢ちゃん、そんな熱心に見つめられると照れてまうがな」
「す、すいません!!」
「嬢ちゃんの反応おもろいわぁ」
2007/07/08 神崎由良
トチュウ。
モドル