クレッシェンド=カプリチオ
理想が、粉々に砕け散った。
彼にとってはいつものように、ピアノのレッスンを受けたエアハルトは、岐路の途中で無精ひげの男の家に引きずり込まれた。
その引きずり込まれた部屋の惨劇を見て、彼は呆然とする。
ついてこなければよかった、と。
たった今、無理矢理ではあるが彼を部屋に招いた人物は、世界に名高い天才ピアニストのトレヴィス=デューイであった。
とどのつまり、エアハルトら、ピアニストを目指す者達が尊敬して止まない人物だったのである。まさかのトレヴィスが目の前に現れ、あまつさえそのトレヴィスについて来いと言われたら、誰がついていかないと言うだろうか、反語。
だがしかし、今のエアハルトはできるならば過去の自分を必死で止めに行きたかった。現実を見ては駄目だ、と。
「ベヒシュタインが……800万がゴミに埋まってる……」
チャコールグレーのコンクリむき出しの、ただっ広い部屋の中央に置かれた高級グランドピアノ“ベヒシュタイン”。その周りはゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミの山で埋め尽くされていた。他に家具があるのかさえ判別不可能。
「トレヴィス=デューイ。世界で今、最も神に近いと称される若手天才ピアニスト。彼の奏でる音は透明感に溢れ、彼が生み出すスコアは繊細さが……繊細さが……」
よもや、その繊細さがゴミ屋敷で生まれるとは。
玄関口から一歩も動けずにいるエアハルトを残し、トレヴィスは歩く邪魔になるゴミを蹴散らしながら部屋の奥へと進んでいった。
「別に高かろうが安かろうが、ピアノはピアノだろー?」
立ち止まり、一段と高く積みあがっていたゴミを払い落とすと、そこからソファーが現れた。
頭が痛い。
「世間が勝手に俺の想像してるだけだろ。そんなの俺の知ったこっちゃないね。と、あったあった」
ゴミの中に埋まっていたであろうライターを手に取り、彼は煙草を加えた。
「じゃあ、えー名前なんだっけ?」
「……エアハルトです」
「じゃあハル。 留守番ヨロシク」
エアハルトが突っ込むより先に、トレヴィスは部屋から出て行った。
***
「うわ、すっげー……」
トレヴィスが帰宅して最初に発した言葉はこれだった。
無理も無いだろう。これ以上散らかせないほどにゴミ溜めだった彼の部屋は、塵一つ無いほどに片付けられている。もちろん、エアハルトの手によってだ。
危うく取り落としそうになった煙草を指に挟み、部屋を見回す彼に、エアハルトは言った。
「一週間」
「あ?」
「一週間、一体どこに行ってたんですか。見ず知らずの人間に留守番頼んで」
信じられないことに、トレヴィスが留守番を押し付け、そして帰宅したのは一週間後だったのだ。一体どうしろと、と最初こそ途方に暮れたエアハルトだったが、そのうち気分が悪くなり、いそいそと掃除を始めることにしたのだ。もちろん、トレヴィスが帰ってくるまでの間だ。しかし、彼が帰ってきたのは一週間後。いかに部屋が汚れていようが、流石にもう掃除する場所が無いほどに片付けきった。
「で、馬鹿正直にお前は1週間留守番してた、と?」
ご苦労なこったネェ、と呆れたような顔でトレヴィスが言う。
「普通家に帰るだろ? 見ず知らずのヤツの家だったらさぁ」
なのに馬鹿正直に留守番って、お前相当変わってるよな、と続ける彼に、エアハルトはぼそりと呟いた。
「……俺にとっては見ず知らずじゃありません。テレビでいつも見てますし、曲だって弾いたことあります」
「俺だって見ず知らずじゃねぇよ? エアハルト=ライアック。今世間でちょっと噂になってる少年ピアニストだ」
「知ってたんですか……?」
「まぁ、ちょこっとな。あ、言っとくけど、それ知ってたからお前に声かけた訳じゃねーから。実際お前の顔なんて覚えてなかったし、思い出したの名前聞いてから大分後だし。つーわけでお前にピアノ教えるーなんて考えゼロだから」
片付けられ、綺麗になったソファーに腰を落ち着かせ、トレヴィスは煙草を銜える。
「つーかお前、何よ。ちょっとは怒ったりしないわけ? 俺、結構酷いこと言ってると思うけど」
「……自覚はあるんですね」
「分かってて言ってるからな」
「最悪ですね」
「それが俺だ。じゃなくて、俺のことはいい。なんでお前は怒らないんだって」
「さぁ……それが、俺だからじゃないですか」
しばしの沈黙の後、エアハルトは帰ると告げた。
2007/04/29 神崎由良
漫画を読まない神崎なんですが、たまたま知った「の○めカンタービレ」。
設定は全然違うんですが、ピアノとゴミに共通点を感じてしまったので……。
パクリじゃないよ、って言ってもらえれば頑張ります(笑)
モドル