リスト対タールベルク――1837年の“決闘”



2005/08/22, 2005/09/04, 2005/10/01

 リストとタールベルクの決闘は、それなりに有名なエピソードだと思います。あちらこちらで紹介されていますが、僕も自分なりにまとめてみました。

 決闘は1837年ですが、少し前から話を始めましょう。シャルル・ダグー伯爵(Count Charles d'Agoult, 1790-1875)とマリー・ド・フラヴィニー(Marie de Flavigny, 1805-1876)は1827年5月に結婚しました。しかし、1832年12月頃にマリー・ダグーがリストに出会って以来、二人は急速に親交を深めていきます。そして1835年6月、二人はパリを離れてスイスに来ました。当時リストは23歳、マリーは29歳。

 リストがいない間にパリに来て、人気を博したピアニストがいます。ジギスムント・タールベルク(Sigismond Thalberg, 1812/01/08-1871/04/27)。リスト(1811/10/22-1886/07/31)の3ヶ月後に生まれた彼は、ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel, 1778-1837)、イグナツ・モシェレス(Ignaz Moscheles, 1794-1870)、フリードリヒ・カルクブレンナー(Friedrich Kalkbrenner, 1785-1849)、ヨハン・ペーター・ピクシス(Johann Peter Pixis, 1788-1874)などに教わった、古典派の後継者でした。彼はリストなどと同じ“神童”です。1826年に14歳でデビューし、1830年のイギリスツアーで初めて一般の人々の前で弾いて、高い評価を得ました。オランダ・ベルギー・ドイツのツアーを経て、1835年秋、パリでも大成功を収めます。ここでパリの民衆は真っ二つに分かれました――タールベルギアン(Thalbergian)とリスティアン(Lisztian)です。新しくパリに来て大人気となったタールベルクと、スイスに行っているリストと、一体どちらがより優れているのか。パリで論戦が始まります。

 さて、スイスにいたリストにもタールベルクの噂が辿り着きました。マリーへの手紙から、リストがタールベルクの作品を見て軽蔑的な姿勢を見せていることが分かります。この時点ではまだリストはタールベルクをライバル視していません。彼が自分の座を脅かす存在になろうとは思っていなかったことでしょう。スイスで幸せな滞在を続けました。1835年12月18日、長女ブランディーヌ(Blandine Liszt, 1835-1862)がジュネーヴで誕生しました。


 さて、リストがいつから本気でタールベルクを意識しだしたかは分かりませんが、「『ニオベ』の主題による大幻想曲」はこのあたりで書かれています。そして1836年4月6日にリスト自身がジュネーヴで初演しました。

 その1836年4月に、リストは一旦スイスを一人で離れ、リヨンでコンサートを開いています。その後に、マリーの兄であるモーリス・ド・フラヴィニー(Maurice de Flavigny, 1799-1873)と話をするために、パリを訪ねました。(なお、このときはタールベルクは既にパリを発った後でした。)このついでに、しばらくリストの演奏を聴いていなかった友人たちのために、サル・エラール(Salle Erard)で演奏会を2回開きました。ここで弾いたベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」ソナタを、エクトル・ベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)が絶賛しています。

 ジュネーヴに戻ったリストは、1836年9月にマリーやジョルジュ・サンドたちと一緒にフランスのシャモニ(Chamonix)に旅行しています。
 そして、1836年10月16日、マリーとともに再びパリにやって来ました。1836年12月18日にはベルリオーズのコンサートで、ベルリオーズの「レリオ」("Lélio")による自作の幻想曲を演奏しました。1837年の1月28日・2月4日・2月11日・2月18日には室内楽のコンサートを行いました。自作は控えて、ベートーヴェンのピアノ・トリオやヴァイオリン・ソナタ、モシェレスやショパンのソロ作品を取り上げたということです。このときに協演したのは、ヴァイオリニストのクレティアン・ユルアン(Crétien Urhan, 1790-1845)と、チェリストのアレクサンドル・バタ(Alexandre Batta, 1816-1902)です。
 そうこうしているうちにタールベルクが再びパリにやってきました。1837年2月に、リストは初めてタールベルクの演奏を聴きました。


 ここで2人の特徴を説明しておきましょう。
 今の知名度から考えると、知名度の低いタールベルクよりもリストが良いのではないかと考えたくなりますが、この決闘はそのような簡単な問題ではありません。
 タールベルクは、伝統を受け継いで、真摯に学習してきた優等生です。その演奏は、「詩的」・「貴族的」で、「上品」で「洗練された」ものだったと言われています。完璧な技巧と器用なペダルの扱いで、繊細で流麗な表現をしたとのことです。保守的な批評家フランソワ=ジョゼフ・フェティス(François-Joseph Fétis, 1784-1871)などが、タールベルクの側につきました。彼の名前は、よく知られた「タールベルクの“3本の手”技法」に残っています。これは、左右両方の手で伴奏をしながら、空いた方の手の親指を中心にメロディーを奏で、それをペダルでうまくつなぐことによって手が3本あるように聞かせる技法です。イギリス人のハーピスト、エライアス・パリッシュ=アルヴァーズ(Elias Parish-Alvars, 1808-1849)が発明したものですが、タールベルクは積極的にこれを広め、また初めて楽譜も3段で書いたそうです。後の作曲家もよくこれを取り入れており、リストの「愛の夢第3番」の冒頭などでも見ることが出来ます。
 一方のリストは、伝統にとらわれない“天才”です。幼い頃からジプシーの演奏を聞いていたリストは、本能的に音楽を直接掴むようなところがあったと思います。形容するなら「豪華絢爛」「熱狂」「男性的」などが定番です。髪を振り乱し、どんなに遠くでも聞こえるような爆音をうち鳴らすピアニスト。タールベルクの3本の手ももちろん凄いですが、カリカチュア(風刺画)でのリストは10本の手で弾いていたりするのです! しかし、タールベルクと比べて一言で言うなら、強調すべきは“新しさ”です。リストは、強引なほどに伝統を崩した革新的な人物です。新しいことをじゃんじゃんやりました。リストは、音楽史を一番大きく変えたとも言われるベートーヴェンの孫弟子でもあります。現代のピアノ技巧はリストが作ったとさえ言われます。ベートーヴェンやシューベルトの普及への貢献、交響詩の創始、調性の崩壊など…、様々な意味で時代の最先端を行っていました。
 “古い”タールベルクと“新しい”リストとが対決したのが、1837年の決闘なのです。

 タールベルクかリストか、音楽新聞「ガゼット・ミュジカル」("Gazette Musicale")などのマスコミも盛り上がります。リストとフェティスの間で強烈なやり取りが行われたようです。(原文を見たいな…。)
 タールベルギアンに言わせれば、リストの演奏は「低俗」「卑劣」「不愉快」なもの。感情をぶつけて鍵盤を叩き付けるなんて近頃の若者は…、と眉をひそめる様子は、容易に想像できます。
 一方リスティアンから見ると、タールベルクの演奏は巧いけど面白くない。リストも、お前オレと違って才能ないのに生真面目によーやるね、と言いたげな感じです。リストは「ピアノでヴァイオリンを弾くヤツは初めて見たばい」などとも言っています。


 いよいよ決闘が始まります。25歳同士の真剣勝負。タールベルクは始めは嫌がっていましたが、いつか直接対決しなければならないことは目に見えていました。
 最初は1837年3月12日日曜日のタールベルクの演奏会。パリ音楽院で400人の前で、自作の2曲、「『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』による大幻想曲」(Op.27)と「『エジプトのモーセ』による幻想曲」(ロッシーニ=タールベルク、Op.33)を演奏しました。
 リストは1837年3月19日日曜日に、ル・ペルティエ通りのオペラ座(収容人数なんと3000人以上!)で、「『ニオベ』の主題による大幻想曲」(パチーニ=リスト)と「コンツェルトシュテュック」(ヴェーバー=リスト)を演奏しました。これほど宏大なところで一人のピアニストが演奏するなどこれまでになかったことだそうですが、リストは見事に彼のピアノの音を響き渡らせたのです。

 そしてクライマックスの直接対決は、1837年3月31日木曜日、“革命のプリンセス”クリスティーナ・ベルジョイオーソ=トリヴルツィオ侯爵夫人(Prince Cristina Belgiojoso-Trivulzio, 1808-1871)のサロンで行われました。このときの鍵盤が象牙だったので、「象牙の闘い」と呼ばれています。チケットは異常に高く、集まったのは200人前後でした。二人以外にもヴァイオリニストのジョゼフ・ランベール・マサール(Joseph Lambert Massart, 1811-1892)やクレティアン・ユルアンを含む10人が演奏したとのことですが、ウォーカーは「彼らは家にいた方がよかっただろう」("they might as well have stayed at home.")と書いています。あまりに容赦ない言い方だと思いますが、聴衆が皆リストとタールベルクを見に来ていたことも明らかです。
 最初にタールベルクが「『エジプトのモーセ』による幻想曲」を弾きました。その後リストの「『ニオベ』の主題による大幻想曲」。どちらも特長を充分に発揮した最高の演奏だったといいます。そして勝負の結果は――?
 ベルジョイオーソ侯爵夫人の名言、「タールベルクは、この世で一番のピアニスト。でもリストはこの世で唯一のピアニスト!」(野本氏の訳です。この言葉、英訳も日本語訳もいろいろあります。原語で読めばすっきりするのですが、ちょっと見つかりませんでした。)なかなか意味深で、矛盾しているようにも見えますが、言いたいことはよく分かります。真面目なピアニストを一列に並べたらそのトップはタールベルク。でもリストは特別な天才で、その中に入れて比べることはできない。(一見、あの“ナンバーワンよりオンリーワン”に近い意味のように思えますが、これは違うはずです。フランツ・リストは世界に一人だけしかいない。それは当たり前のことです。侯爵夫人は、ピアニストは世界にリストだけしかいないと言っているのですから!)とにかく、どちらか一人を選ぶということは避けられた訳です。1837年4月3日の「デバ」誌で、ジュール・ジャナン(Jules Janin, 1804-1874)が「勝利者が2人、敗北者はいなかった」と書いています。このようにして、パリでの騒ぎは一応収まったようです。(“新しい”ピアニストが“古い”ピアニストを打ち負かしたような書き方をしている人もいますが、新しいリスト“も”受け入れられた、というぐらいで充分ではないかと思っています。)



 ここで「『ニオベ』の主題による大幻想曲」の曲紹介をしておきましょう。この曲について簡単に整理します。
 1836年4月6日までに完成し、この日にリストが初演しました。楽譜は1837年2月17日出版。そして、1837年3月19日と、直接対決の1837年3月31日にリストが弾いた曲でした。その後もリストや他のピアニストによって、たびたび取り上げられた作品だということです。

 原曲を作ったジョヴァンニ・パチーニ(Giovanni Pacini, 1796-1867)はイタリア人の作曲家です。オペラ「ニオベ」は1826年に初演され、その中で今回使われているカヴァティーナ「君の胸のときめき」("I tuoi frequenti palpiti")は、当時流行っていたようです。
 始めはこの前半しか出てきません。「咲いた咲いたチューリップの花が」ばかり続けているような感じです。明るく始まりますが、じきに短調になり、かなり緊迫した印象を与えます。上からガラスが降ってくるような音型が何度も出てくるのは、いつ聞いてもゾッとします。ショパンの「バラード第2番」Op.38の激しいところなどを思い浮かべてみてください。
 しばらくすると、ゆったりした音楽が来ます。オペラファンタジーのこういうところも大好きです。メロディー自体にもちろん魅力があって、ゆっくりなのに興奮できます。でもそれだけでなく、一旦ホッとしたということは次にまた更に激しい興奮が来るに違いない、という確信的な予感もあり、期待が高まります。この部分を聴いて、「『ノルマ』の回想」(ベッリーニ=リスト)[13:13]の「戦争だ! 戦争だ!」("Guerra! Guerra!"、変ホ短調)の前の部分(MIDIでは10:25辺りまで)や、「『ラ・カンパネラ』による華麗なる大幻想曲」[13:14]の最後の方の、左手が5連符のところ(MIDIでは11:05〜11:54)を思い出しました。
 カデンツァの後に、予想通り元に戻ってきます。前と同じようなのをしばらく繰り返しますが、下りていった後の上昇にご注目ください。16分音符4つ組のそれぞれ最初の音を聴いていくと、全音階になっていることがお分かりになるでしょうか? ハワードによると、これがリストが初めて使った全音階なのだそうです。リストの“新しさ”のさりげないアピールなのかも知れません。
 この後、やっと後半のメロディーを聴くことができます。始めで聞いたときには全然リラックスできなかったメロディーですが、ここまで聴くと、これも非常に親しみやすい旋律だったことが分かります。人気になるのもよく分かる。
 ここからテンポをアップダウンさせながら巧みに興奮状態へ引き込んでいき、最後はPrestissimoの「出来るだけ、メッチャ強く!」(il più forte possibile)で華麗に締めくくられます。ここはご自分で聴いていただくしかないでしょう。3000人のリスティアンの熱狂・高揚を思い描きながら、お楽しみください。オペラファンタジー好きなら、当時のような熱狂を感じることが出来るでしょう。

 なお、第1稿(S419i)のタイトルが「『ニオベ』の主題による大幻想曲」("Grande fantaisie sur des thèmes de l'opéra Niobe")で、第2稿(S419ii)は「『君の胸のときめき』によるディヴェルティスマン」(Divertissement sur la cavatine I frequenti palpiti)です。第2稿は第1稿から削ったり簡単にしたりして面白くなくしたものなので、第1稿が演奏される機会の方が多いようです。



 さて、実際に音楽を聴いて、タールベルクとリストの違いを考えてみたいと思います。(間違ったこともたくさん書いていると思います。鵜呑みにしないでください。)
 スティーヴン・メイヤーのCDを聴いてみました。1837年3月に二人が弾いた4曲を収録したものです。
 タールベルクの曲は、思っていたよりもずっと魅力的なものでした。タールベルクは常に冷静沈着で、うっとりさせるような美しい音ばかりを奏でていたように思っていましたが、それは早計でした。ピアニストとして二人を見て、リストの爆音と比べてはいけないかも知れませんが、タールベルクも、会場を盛り上げて聴衆を興奮させる術は確実に心得ていたと思います。ちゃんとƒƒも指定しています。
 そう考えると、二人がどんどん近いものに見えてきます。新しいとか古いとか言っていても、二人とも3月31日に弾いたのはオペラファンタジーです。タールベルクのオペラファンタジーには、僕が知っているリストのオペラファンタジーに近い雰囲気を感じます。一方、こういう音楽を作り出すのがタールベルクの得意技だとすれば、リストの「『ニオベ』の主題による大幻想曲」はタールベルク的と言いたくなるのです。そうすると、ニオベ幻想曲は革新的なのか…? ということになります。
 確かに後々まで見れば、リストは革新的です。タールベルクが古くてリストが新しいというのは納得できます。でも、1837年の時点ではどうでしょうか? もし僕があのときパリにいたら、リストではなくてタールベルク側についていたのではないかと思うのです。タールベルクは素敵なオペラファンタジーを次々と作って魅了する。その一方で(少なくとも作曲家としての)リストは、まだ自分らしさを確立できていないように思えます。
 1830年代のリストの作品の一部には、1840年代以降とは明らかに違った世界が広がっています。あえて言うなら晩年に近い音楽だと思います。若いリストの真剣さ、暗さ、狂気などが現れたこれらの作品は、新しい音楽だと言っていいでしょう。曲数はそれほど多くありません。「『ラ・カンパネラ』による華麗なる大幻想曲」(パガニーニ=リスト)(1832年)、単独曲の「詩的で宗教的な調べ」(詩的で宗教的な調べ第4曲「死者の追憶」第1稿)(1834年)、3つの「顕現」(1834年)、「スイスの2つの旋律によるロマンティックな幻想曲」(1836年)などです。僕は大好きですが、一般的に好まれる音楽ではありませんし、当時の聴衆に受け容れられたとはあまり考えられません。確かに“新しい”これらの作品ですが、「これがオレの音楽だ」とリストが自信持って言えるものではなかったと思います。ですから、人気者のタールベルクに対抗できるような、人々に喜ばれる作品を作るには、多少なりともタールベルク的にならざるを得なかったのではないでしょうか。
 こう考えても、僕が「リスト的」だと思っていたオペラファンタジーのある種の味は、どうやら「タールベルク的」と言った方がいいようなのです。そして、今では全然知られていない当時の“一番のピアニスト”、さらにおそらく一番のオペラファンタジー作曲家であるタールベルクは、リストでも作れないような楽しい音楽をたくさん作ってくれているように思えてきます。そうするとタールベルギアンが少なくなかったことも納得できます。見方によってはタールベルクの勝ちとも取れそうなものです。もちろん、後の時代のことまで考えて判断すれば、リストと比べてタールベルクは大したことないとも言えそうですが。
 ここに書いたことはちょっと自信ありません。タールベルクの作品をいろいろ聴いてから、書き直すかも知れません。
 (なお、演奏家としてのリストの新しさについて書くのは、今回やめておきます。ピアニストとしての比較であれば、リストが革新的な天才で、タールベルクがお上手な優等生、という対比がきれいに見えるのかも知れません。それにしても、どんなに調査しても彼らの演奏をじかに聴くことができないのは、残念でたまりません。自分の耳で聴き比べられたらどんなに良かったことか!)



 勝負は終わりましたが、せっかくですのでここで「ヘクサメロン」("Hexaméron")についてもふれておきます。
 これは、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini, 1801-1835)の主題による変奏曲を6人のピアニストが作り、リストがそれらをつなぎ合わせて完成させた作品です。これもベルジョイオーソ侯爵夫人が企画したもので、本来は1837年3月31日に6人を集めて演奏したかったのだと思われます。それまでに完成しなかったので、これは実現しませんでした。リストによる前奏・テーマ提示に続いて、第1変奏タールベルク(1812-1871)、第2変奏リスト(1811-1886)、と二人が早速登場します。第3変奏ピクシス(1788-1874)はタールベルクの先生、第4変奏アンリ・エルツ(1803-1888)はタールベルクの応援者(“古い”ピアニスト仲間)。第5変奏カール・チェルニー(1791-1857)はリストの先生、第6変奏フレデリック・フランソワ・ショパン(Frédéric François Chopin, 1810-1849)はリストの応援者です。6人をタールベルク派とリスト派に分ける考え方はほとんど耳にしませんが、楽譜のタイトルにタールベルクとリストの二人だけが大きな文字で書かれていることなどから考えても、この見方は間違っていないと思います。
 ショパンがリストの応援者というのはちょっと変な感じがするかも知れません。実際二人は親友というほどの仲ではなさそうです。でも、タールベルクとリストのどちらにつくかと言うと、ショパンは確実に“新しい”リストの方です。リストとショパンとメンデルスゾーンとヒラーが喋っているときに通りかかった“古い”カルクブレンナーをみんなで嘲っているシーン(VY p.164)などからも、このことは感じ取れます。
 6つの変奏が終わり、最後の締めくくりはやはりリストが担当しています。ここでパクっている3つの変奏がいずれもタールベルク側であることも意味ありげです。もしかすると、リスト的な解釈で彼らの音楽を弾いて見せてタールベルギアンたちをあっと言わせようと思って作っていたのかも知れません。
 いずれにせよ、決闘が無事終わった後、この「ヘクサメロン」は以後リストの主要なレパートリーになりました。



 マスコミはこの後もいつまでもタールベルクとリストを対立させ、比較していましたが、リストは1838年にヴィーンを訪ねたときにタールベルクと会い、それから仲良くしていたようです。リストは自分のコンサートでタールベルクの作品を取り上げたりもしています。タールベルギアンが指摘したリストの欠点について、見習うことが出来ると考えていたのかも知れません。二人について、考えれば考えるほど興味深いです。



※参考資料
"Franz Liszt - The Virtuoso Years 1811-1847"(アラン・ウォーカー)
「大作曲家 リスト」(エヴェレット・ヘルム、野本由紀夫訳)
「作曲家 人と作品 リスト」(福田弥)
「浪漫派研究会」「パリの出来事 リスト対タールバーグ」(じょるじゅさん)
"Le Duel!"(James Bartelさん)
その他、リスト関係のサイトを中心に、様々な文章を参考にしました。

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